カッコーの巣の下のほう

心の変容を目撃せよ

この映画を初めてみたのは、多感な年頃であった10代の頃。数少ない観てきた映画の中で、こんなにもふがいなく衝撃的なストーリーはなかったんじゃないかと、言い切ってしまいたいくらい、こころに刺さった物語だったと記憶している映画でありました。それが「カッコーの巣の上で」。

2012年、英Total Film誌が「映画史に残る演技ベスト200(The 200 Greatest Movie Performances of All Time)」を発表し、第1位に『カッコーの巣の上で』で主演のジャックニコルソンの演技が選ばれました。そんなこともあり、最注目もされる中でやはり名作といわざるを得ないこの映画なのですが、単に名作だと伝えるにはあまりにもぶっきら棒なので、超個人的に、なぜ評価が高いのか分析をしてみることにします。一言でいうなれば(非常に難しいですが、^^;)「見る側の解釈が多様であり、それぞれの価値観に沿っていくことが出来る」という点ではないかと考えました。解釈の多様性、作品としては細かなディティールの素晴しさというよりは、相対的な印象だとわたしは感じますから、結果的に随所で見られる絶対的な演技と細かなディティールがとてもだいじになってくるわけです。

そう、この映画は絶対的なジャックニコルソンの演技力の素晴しさがあるわけで、もちろん最高のエッセンスとなっていますが、その演技にこそにみられる、当時のアメリカの思想の自由を奪われつつある閉塞的な雰囲気によって垣間見る「支配にそむく行為」=「社会にそむく行為」の権力体制を目の当たりにし、その行為を私たち観ているいろんな立場からの人間たちにどううつるかが、解釈の多様性を生み出しているんだと考えます。ある種の、現実社会での縮図であって、超リアリティズムともいえましょう。

そんなわけで、あまりにも有名な作品だし、わざわざ話すまでもないのですが、すこしだけお付き合いいただきたく思います^^

善意の悪魔が潜んでる

 ジャック・ニコルソンが演じる、主人公マクマーフィーは刑務所から逃れるために、詐病で精神病院に入院を図った。そこでは、処方された向精神薬を飲んだふりして誤魔化していた。そんなマクマーフィーは、病棟でのルールが気に入らなく、容赦なく反抗を繰り返していた。たとえば、グループセラピーなどやめてテレビで野球が観たいと主張し、他の患者も巻き込んでいった。はじめはそんな患者たちもマクマーフィーの行動にいやな顔をして避けていたのだけど、マクマーフィーという人間とともに生活をしていくうちに、彼に共感し、賛同するようになっていった。しかし、あまりにも破天荒な行動をすることから、管理的主義な婦長の逆麟にふれてしまい外出禁止にしてしまうなど、よりルールは厳しくなっていた。ある日、患者が騒動を起こした際、止めようとしたマクマーフィーも一緒に、お仕置きである電気けいれん療法を受けさせられてしまう。マクマーフィーは、しゃべることのできないネイティブアメリカンであるチーフとともに順番を待っていたが、実際は彼がしゃべれないフリをしていることに気づき、一緒に病院から脱出しようと約束する。しかしチーフは、自分は小さな人間だとその誘いを断る。

クリスマスの夜、マクマーフィーは病棟に女友達を連れ込み、酒を持ち込んでどんちゃん騒ぎをしてしまう。一騒ぎ終わったあと、別れようとするときになって、ビリーが女友達の一人を好いていることに気づいた。ビリーはマクマーフィーに可愛がられていたから、マクマーフィーは女友達に、ビリーとセックスをするよう頼み込み、二人は個室に入っていく。二人の行為が終わるのを待っている間、酒も廻り、ついに寝過ごしてしまったのだ。翌朝、乱痴気騒ぎが発覚し、そのことを婦長からビリーは激しく糾弾され、母親に報告すると告げられる。そのショックでビリーは自殺してしまう。マクマーフィーは激昂し、彼女を絞殺しようとする。婦長を絞殺しようとしたマクマーフィーは他の入院患者と隔離される。チーフはついに逃げ出す覚悟をしマクマーフィーを待っていたが、戻ってきたマクマーフィーは病院が行った(ロボトミー)によって、もはや言葉もしゃべれず、正常な思考もできない廃人のような姿になっていた。チーフはマクマーフィーを窒息死させ、「持ち上げた者には奇跡が起きる」とマクマーフィーが言った水飲み台を持ち上げて窓を破り、精神病院を脱走する。。。

主観的ではありますが、反社会体制を貫くけばけばしさは、己の無力さと不条理なキモチに翻弄させるがごとく、ゆれ動くモラトリアムであって、そこからラストまで突っ走れば、カタルシスを存分に味わうことの出来る映画でありましょう。

カッコーは巣をもたない

ところで、カッコーって鳥、みなさん知っていますか?
日本では別名「閑古鳥」ともいわれていて、さびれたさまを「閑古鳥が鳴く」とたとえます。日本人には、カッコーの声に物悲しさや寂しさを感じていたようです。他にも芸術作品で見かけますが、たとえば日本の「鳩時計」ハトと呼ぶのに、本来はカッコーなんだとか。カッコーにまつわる歌や曲、詩、物語も多くありますよね。そんなカッコーについて調べてみることにします。

托卵からの現代社会への考察

カッコーは托卵(たくらん)をすることで有名ですが、その托卵というのは、自分の卵をひとに育てさせることを意味します。ですから、カッコーは巣を持たないのであって、勝手に都合のいい巣をさがし、じぶんの卵をぶちこみ、数を合わせるために、仮親にバレないよう元の巣から卵を排除をもしてしまう。そんな、文面だけで見るととても乱暴に見えるカッコーの生態。しかし、これは自然の摂理であるため、カッコーもその鳥の卵に模様を似せるなど見破られないようにと能力を十二分に発揮し発達させてきた。それも摂理であって、そしてこれこそが片利片害共進化の典型なのでありましょう。

さて、それをふまえまして、あらためてこの映画のことを考えると、「One Flew Over The Cuckoo's Nest」という原題もさながら、「カッコーの巣の上で」という日本語表現した邦題の素晴しさをとても感じます。 「Cuckoo's Nest」は精神病棟の語をさすのですが、それはマザーグースの詩から由来してるといいます。カッコーは巣を持たないと話しましたが、本来巣をもたないカッコーが、自分の魂といいますか、人間としての尊厳をどこに置いていくのか、はたまた守るのか。そこは、精神病棟であったのだろうと解釈しますが、マクマーフィーはカッコーであり、巣立ったのは、チーフだったのではと推測します。そして当時のアメリカ社会を風刺してるともいいましょうか。

当時のアメリカは、精神治療の先進国でした。第二次大戦でドイツから多くの心理学者が亡命しロスト・ジェネレーションと相まって、精神治療がブームとなりましたから、そんな背景から猫も杓子も精神治療だ!とされていたんだといいます。結果、それらは今現在でも引きずり、離婚や解雇、ケンカ別れなどでもカンタンに精神医にかかるのは、アメリカだけなのではないでしょうか。とは少々大げさでしたが、日本でも精神科医にかかることを懸念されていた時代からはずいぶん飛躍し、心療内科や、メンタルクリニックなどと、言い方も変えて、やんわりした印象になったので、だれでもかかりやすくなっている様ではあります。ただそこには、また別の問題としてある、かからなければならない状況。が増えた「原因」も忘れてはいけませんよね。そこさえも、マクマーフィーは訴えていたような気がするのは、わたしだけでしょうか。。。